巨匠ヴァイオリニスト ミルシュティンの教え
学びのレガシー

演奏家にとって、偉大な芸術家に師事する恩恵は計り知れない。宇田川杰子はまさにそれを体現するような演奏家である。才能ある若いヴァイオリニストに出会うと必ず、誰に師事しているか尋ねるという。「答えを聞けば、その演奏家のことがよくわかるからです。」

宇田川は幼少の頃、江藤俊哉に師事していた。江藤は、究極のテクニックと表現力を兼ね備えたロシア派ヴァイオリン演奏の第一人者エフレム•ジンバリストに学んだ、日本で最も優れたヴァイオリニストの一人であった。

その後宇田川は国際的なヴァイオリニストになることを目指し、20代前半に世界有数の指導を受けられることで知られるロンドンへ渡る。渡英後最初に師事したのは著名な指導者であったが、演奏家としての経験も少なく音楽的な見識にも欠け、実り少ない経験だったと、当時を振り返る。日本で江藤俊哉の指導を受けて築かれた高いレベルから自分の基準を下げたくないと悩み、困難を極める中、最高の指導者を探す決意を固める。

自分の可能性を引き出す唯一の方法は、偉大な演奏家に師事することだと確信した頃、当時最も有名な音楽家の一人であったロシアの名ヴァイオリニスト、ナタン・ミルシュテインが偶然にもロンドンに住んでいることを知った。会いに行って教えを乞うつもりだと知人に伝える度、ミルシュテインは教えないことで有名なのに、そんな夢が実現するわけがないと、誰からも諭されたという。

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そのような折、運命が扉を叩く。ロイヤル・フェスティバル・ホールでミルシュテインのコンサートがあった折、思い切った行動に出たのだ。「ミルシュテインの素晴らしい演奏が終わった後、楽屋に訪ねに行きました。レッスンをお願いするのではなく、一度で良いので私の演奏を聴いていただけないかとお伺いすると、なんと快諾してくださったのです。」

師弟の相性の良さは初めから明らかだった。ミルシュテインの貴族的な佇まい、独創的なテクニック、演奏家としての素晴らしいセンスの良さに、すっかり魅了された。「ミルシュテインは、安易な効果を狙うようなことは決してせずに、どのような名人芸的な難曲でも、常にエレガントに演奏したものです。どこまでも上品な演奏家でした。」

ミルシュテインの卓越した指導は、宇田川の成長に大いに貢献した。音楽家としてのキャリアをスタートさせた若い女性にとって最も必要とする指導者を仰げたことは、とても幸運だったという。「正直なところ、当時の私は演奏家としての自分に自信も確信も持っていませんでしたが、ミルシュテインは『才能ある者はそれを全うすべし』と鼓舞してくれたのです。」

その後もミルシュテインだけに師事し、その師弟関係は彼が1992年に亡くなるまで続いた。演奏技術や音楽性を教えると同時に、恩師でもあり人生を導くガイドとして果たした彼の役割は、宇田川の演奏家としての成長に欠かせない重要なものだった。「彼が私を信じてくれたことで、私も自分を信じることを学べたのだと思います。指導者として最も大事な役割を見事に果たしてくださいました。」

ミルシュテインが継承するロシアの伝統は、宇田川が取り組む演奏指導の大きな柱の一つでもある。「ロシア派のヴァイオリン奏法は、私の中に深く根付いている遺産であり、私が教師として伝えていくことの中核でもあります。」
単に優れたテクニックを磨くだけでは不十分である。確かなテクニックはあくまでも、音楽家として、また、自分の音楽的特徴を十分に表現するための基礎でしかなく、その上に加わる表現こそが他者から自分を際立たせるものなのだ、という哲学である。

ミルシュテインからは、あるパッセージがうまく弾けないときには、それを延々と繰り返してはいけないという指導を受けたという。しばし演奏を止めて、なぜうまくいかないのかを考え、異なるアプローチを試してみる。自分にとって効果的であり、かつ、演奏を聞く人々に自分の解釈を伝えられる方法を見つけなければならない、と教示された。

個性を重視する姿勢は、演奏家として、また指導者として宇田川が抱く、本質的な美点である。「それぞれの音楽家の個性を伸ばしていく事はとても大事です。他者と同じような演奏をしても誰も興味はもってくれません。自分の演奏をしなければ…….」
ミルシュテインは、指導者として明確なアイディアや確固とした好みを持っていたにもかかわらず、演奏者がもしその意見に同意しないなら無理に従うことはないと常々口にしていた。幸いなことに宇田川は、彼の音楽へのアプローチに疑問を持ったことは一度もなかったという。「自分が教える演奏家たちに選択の自由を提供することは、最も大事だと思っています。もちろん、私の演奏解釈を伝えはしますが、決してそれを押し付けてはなりません。」

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