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『ファンファーレ』誌
ブルッフとブラームスのヴァイオリン協奏曲 CD
宇田川杰子(ヴァイオリン)
サー・チャールズ・マッケラス指揮
ロンドン交響楽団
『クロニカ・ロマーナ』
エネスコ音楽祭の批評記事
宇田川杰子とボリス・ベレゾフスキーのリサイタル
クイーン・エリザベス・ホール・リサイタル
『ファンファーレ』誌
ハチャトゥリアン:ソナタと舞曲
宇田川杰子(ヴァイオリン)
ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ)
KOCH 3-7571-2 HI
アラム・ハチャトゥリアンのヴァイオリンとピアノのための作品は、演奏機会の多いバレエ《ガイーヌ》の中の〈剣の舞〉以外あまり多くの聴衆に聴かれることがないということは、この楽器のレパートリーとしては不可解なことのひとつである。ハチャトゥリアンの短いソナタは、第1楽章と力強く推進するがたえず真面目で高潔な第2楽章をもつ彼のよく知られたヴァイオリン協奏曲とよく似た異国的な雰囲気を感じさせ、演奏プログラムではプロコフィエフのソナタの代わりとして演奏することができるだろう。ヴァイオリニストとしての人生をナタン・ミルシュテインとともに歩んだ宇田川杰子は、第1楽章を示唆的に、第2楽章を鋭敏に、彼女の恩師を思い出させる鮮やかなテクニックで、しかしミルシテインよりもむしろダヴィッド・オイストラフを思い起こさせる大きな抑揚をもって、演奏している。他のプログラムの大半は40年代のハチャトゥリアンのバレエ曲からとられた小品だが、同様に20年代の一連の自由な曲(エレジー、舞曲、詩曲、舞曲第1番)も含まれている。これらの曲は後の作品の異国的なメロディ、ハーモニー、オーケストラの豊かさと比較すると地味に思える。しかし、その後の10年間に作曲されたソナタのように、それらは華やかな音楽の想像性に欠けるとしても魅力的ではある。ハチャトゥリアンをけばけばしくむらがあると非難する人たちにとっては、こうした鋭く描かれた細密画のような演奏は身が引き締まるような驚きを覚えるにちがいない。どちらかというと外向的な《舞曲第1番》(1925)にも冗談めいた結びの部分までずっと貴族的なものを持ち続けている。バレエのプログラムとして最初に演奏される《ガイーヌ》の〈子守歌〉は、ヴァイオリンとピアノのための編曲にさえ、オリジナルのオーケストラ版の重々しさが加味されたような雰囲気を感じさせる。これらの曲は、比較的思索的なものでも、明らかにヴァイオリン技術の能力が際立っている(《ガイーヌ》の〈ヌーネのヴァリアシオン〉はよく知られた〈剣の舞〉よりもむしろ強烈な印象をもつ)。ヴァイオリン・ソロ版がオリジナルの組曲《仮面舞踏会》の〈夜想曲〉はピアノ伴奏つきの縮小版でも同様の効果を出している。
宇田川とベレゾフスキーは決してハチャトゥリアンの旋律の美しさを感傷主義に陥らせることはない。あまり細部にこだわらない演奏家たちは(〈夜想曲〉でのように)行き詰まってしまうかもしれないパッセージで、彼らがこれらの曲を活発に進めて行く間、ふたりの自信に満ちた様子は気取らない気楽さの中で失ってしまいそうなものを十分補っている。事実、宇田川のポルタメントと堂々たる態度は大きな楽曲(《ガイーヌ》の〈アイシャの踊り〉、《スパルタクス》の〈エギナの踊り〉と、もちろん〈剣の舞〉。これらの曲ではこれ以上シャープな切れ味を持っている人はいない)で時折、ハイフェッツを思い起こさせる。しかし思い出させるといっても、宇田川のテクニックの工夫は過去の最も偉大なアーティストに通じるものがあるが、途切れることなく音楽の構造の中に組み込んでいるので、それらは模倣には聞こえない。
録音された残響音はふたつの楽器にとって効果的で、たびたび現れるラプソディー風のクライマックスのために豊かな音域を備えている。宇田川とベレゾフスキーがこの作曲者の生誕100周年に捧げたものは、彼の崇拝者へも中傷者へも訴えるものがあるだろう。感動的な演奏と同じように特にそのレパートリーでも。
『ベイ・エリア・リポート』誌
ハチャトゥリアン:ソナタと舞曲
宇田川杰子(ヴァイオリン)
ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ)
KOCH 3-7571-2 HI
ハチャトゥリアンの生誕100周年を記念して、いくつかの新しいレコーディングがなされた。すばらしいコッホ・レーベルに『ハチャトゥリアン:ソナタと舞曲』がヴァイオリニスト宇田川杰子とピアニスト、ボリス・ベレゾフスキーにより、大部分が世界初録音で行われた。初期の《舞曲第1番》(1925)の演奏はハチャトゥリアンの家族がオリジナルの手書き譜をヴァイオリニストに提供してくれたことで可能となった。プログラムの中で一番長い作品、美しいヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1932)はフランスの印象主義とアルメニアの感性とを上手く融合させている。オーケストラ版からの7つのヴァイオリンとピアノのための編曲は表面に見えているものを取り去り、曲の基調を明らかにしている。《スパルタクス》からのエネルギッシュな〈エギナの踊り〉と心のこもった〈グランド・アダージョ〉、そして人気のある〈ヌーネのヴァリアシオン〉と《ガイーヌ》の〈剣の舞〉は、最も魅力的である。
ナタン・ミルシュテインの弟子、宇田川は小気味よい演奏をする。さらなる切れ味と甘さを望む人もいるが、彼女の独特の味わいがハチャトゥリアンの気取らなさを強調している。ベレゾフスキーは理想的ともいえる感性豊かなサポートを行っている。
Jason Serinus
『グラモフォン』誌
グラズノフ―ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー(オーケストラ編曲:グラズノフ)―なつかしい土地の思い出
ショーソン―詩曲
サラサーテ―スペイン舞曲
サン=サーンス(編曲:イザイ)―ワルツ風奇想曲
宇田川杰子(ヴァイオリン)
ケネス・クライン指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
Carlton Classis CIMPC 966
このCDにはヴァイオリンとオーケストラのための珠玉の作品がたくさん集められ、宇田川の豊かな音色で自由なロマンティシズムあふれる演奏が聴かれる。時折ポルタメントを用いる彼女の演奏はやや古めかしく感じるかもしれないが、一つ一つの音で明らかな彼女の情熱的な献身ぶりはなんということだろう。グラズノフの演奏は、他の巨匠と比べても決して引けをとることない、人を惹きつけるのに十分な説得力のあるものだ。フィナーレでは、彼女はハイフェッツやパールマンのように華麗な超絶技巧を見せつけるというのではなく、よりシンプルな音使いで、軽妙なテクニックによる説得力のある演奏となった。彼女のヴァイオリンは、ほどよくバランスのとれた表現で、ハイフェッツやパールマンのように音数の詰まった歌い方ではなく、より空間のある演奏によって、オーケストラの音色も非常に生かされ、ソリストとの絶妙なコンビネーションが生まれている。
チャイコフスキーが《なつかしい土地の思い出》と名づけた作品の全3曲を収録しているのは貴重だ。〈瞑想曲〉と〈メロディ〉は、〈スケルツォ〉と違いこれまで幾度か録音されてきているが、グラズノフ編曲による、近年唯一の3作揃った作品となった。ショーソンの《詩曲》のような曲も軽くこなし、サラサーテの《スペイン舞曲》も愉快に踊らせ、サン=サーンスの《奇想曲》に至っては、イザイの編曲によるこの作品に対し、名人芸とも言える彼女の巧みな演奏が聴いてとれる。
Edward Greenfield
『CDレヴュー・マガジン』
グラズノフ―ヴァイオリン協奏曲
チャイコフスキー(オーケストラ編曲:グラズノフ)―なつかしい土地の思い出
ショーソン―詩曲
サラサーテ―スペイン舞曲
サン=サーンス(編曲:イザイ)―ワルツ風奇想曲
宇田川杰子(ヴァイオリン)
ケネス・クライン指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
Carlton Classics CIMPC 966
これは、あまり知られていないヴァイオリンとオーケストラのための小品ばかりを集めた魅力的なCDで、才能豊かなヴァイオリニストによる素晴らしい演奏を聴くことができる。作品としてのクオリティは実に高く、オーケストラとソリストとのバランスも絶妙である。めったに耳にすることのできない曲ばかりのこの作品は、今までにない新たなレア・コレクションとして、貴重なアイテムとなるはずだ。
『ファンファーレ』誌
ブルッフ―ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
ブラームス―ヴァイオリン協奏曲ニ長調
宇田川杰子(ヴァイオリン)
サー・チャールズ・マッケラス指揮
ロンドン交響楽団
Chandos CHAN 8974
Bruch - Violin Concerto No 1 in G minor
Brahms - Violin Concerto in D
Hideko Udagawa - Violin
Sir Charles Mackerras - Conductor
London Symphony Orchestra
Chandos CHAN 8974
宇田川の力強い情熱と、高度のテクニック、そして彼女の音楽への愛情が十二分に伝わってくるこのCDを、非常に楽しんで聴くことができた。
ブルッフの初めの楽章では、ハイフェッツのごとくアルペジオを次第に変幻自在に展開させ、また、ハイフェッツのように(そして彼女の師であるミルシュテインのコロムビアの78回転盤にも見られる)、緩徐楽章への移行部にあたる最後の速いスケールに突入する前に、クライマックスの2音にオクターヴの補助音を重ねている。全編にわたって、名人としてのテクニックと高い精神性の表れた作品という印象を受ける。ブラームスについても同様、長く伸ばした音が、一風変わって聞こえるかもしれないが、その緊張感は極限に達している。まばゆいばかりの金管楽器の音色も、音にインパクトを添えている。管楽器もストリングスに比べて非常にタイトに息が合っているようで、音の切れ目も非常に歯切れがよい。この演奏は土臭く、激しく、聴く者を楽しませてくれる演奏だ。
David K.Nelson
『クロニカ・ロマーナ』エネスコ音楽祭の批評記事
宇田川杰子とボリス・ベレゾフスキーのリサイタル
エネスコのヴァイオリン・ソナタは、ギリシャのヴァイオリニスト、レオニダス・カヴァコスや日本人ヴァイオリニスト、宇田川杰子らの名演で示されているように、非常に芸術性の高い作品のひとつである。
ヨーロッパ人であるカヴァコスがエネスコの難曲に取り組み演奏したとしても、さして驚くには値しないが、日本人である宇田川杰子が、ルーマニアの作曲家による初期のソナタ2作品に着目し、そこに彼女が持つアジアの叙情性や、東洋のクロマティック音階のエッセンス(エネスコはルーマニアの伝統音楽に使われるフィドルを取り上げている)、インド=ヨーロッパの古い民俗音楽の記憶を発見し、それを明らかにしたことで、彼女の演奏は聴く者の心を捉えて放さない独特のアクセントを持つものとなった。さらに加筆すべきことは、ピアニストのボリス・ベレゾフスキーがその圧倒的な存在感で彼のパートナーに容赦なくインスパイアを与えており、エネスコの音楽にかつてないほどの高いレベルでの演奏を実現していることだ。
Viorel Cosma
『ザ・デイリー・テレグラフ』
ヴァイオリニスト、宇田川杰子は土曜日、クイーン・エリザベス・ホールでの彼女のリサイタル初日、モーツァルトのロ短調ソナタK.378を演奏し、欧州や米国で絶賛されてきたその比類ない優雅な音と情感によって聴衆を魅了した。3つの楽章すべてにわたって、彼女の本能的と言っていいほどの計算されつくされた演奏が繰り広げられており、気品、優雅さ、精神性の表れた音使いといったものは、けして彼女によって意識されたものではないことを証明していた。
理想的とも思えるほどモーツァルトに合っている素質は、ベートーヴェンの作品30の2、ハ短調ソナタでもさらに際立った効果を上げていた。というのは、音の奥深くから出てくる、生き生きと表明されて正確に統制されたドラマの感性をもって、彼女はここで、アダージョの詩的な雄弁さあるいはソナタ全体の圧迫感と緊張感から際立つスケルツォの雰囲気に対してよりもずっと、両端楽章の底に流れる暗く不穏な雰囲気に対して敏感だった。
どちらの曲もヴァイオリンとピアノの間の密接な協力を必要とし、両曲とも彼女とピアニストのジェラルド・ロビンスとのパートナーシップはお互いの本質に鋭く影響を与え合っていた。よく似た者同士の注意深くバランスがとられた均衡はシューベルトのハ長調幻想曲の対照的な挿句を通して保たれ、ヴァイオリニストの叙情的な繊細さはさらに、豊かに表現されたチャイコフスキーの《瞑想曲》で高められ、彼女のすぐにそれとわかるヴィルトゥオジティが《ポーギーとベス》の歌からのハイフェッツの巧妙な編曲によって高められた。
Robert Henderson
『イースタン・デイリー・プレス』
大きく、力強いオープニング
ノーフォーク&ノーウィッチ音楽祭
宇田川杰子(ヴァイオリン)
レナード・スラットキン(指揮)
フィルハーモニア管弦楽団
ノーウィッチ、セント・アンドリューホール
とうとう幕が上がる! 没後100周年の年に、オール・チャイコフスキーの夕べとは、なんという音楽祭の始まり方だろう。
レナード・スラットキンの力強いリーダーシップのもと、オーケストラは音楽祭の監督ヘザー・ネヴィルの“一風変わった”ポリシーを維持する。「《祝典序曲》ニ長調をよく知っている人はあまりいない」と彼女は言った。美しく、力強く、派手で衝撃的なオープニングだった。
ヴァイオリン協奏曲ニ長調になると、魅力的な日本のソリスト宇田川杰子は扇情的なストリングスの伴奏を得て、たちどころに踊りのテンポとする。アレグロへの見事に自信にあふれたカデンツァと楽団を従えた最終楽章の熟達した技術が記憶に残っている。 チャイコフスキーは美しい旋律をたくさん書いた作曲家だが、交響曲第5番にはそうした旋律が多く見られる。
Michael Dorake
TAGESSPIEGEL(ベルリン)
一晩に2つの大きなソナタを演奏することは、かなりの集中力と確かな技術を必要とする。宇田川杰子はその両方を兼ね備えている。彼女がバッハのフーガとプレストにもたらした激しい弓の運びの勢いは、反響においてはすばやく、ダブルまたはトリプル・ストッピングでつけた抑揚においては見事だった。彼女の運弓法は、羽のように軽やかな精密さと弓の根元の部分での驚くべきパワーを兼ね備えていた。このような見事な確固とした態度で作り上げた音色は、速いヴィブラートと表現力に富んだ正確さとを結びついた。
Wolfgang Molkow
STEREO MAGAZINE(東京)
巨匠ミルシュテインの愛弟子であり、国際的に評価されている宇田川杰子は、名門ロンドン交響楽団とともに2つの偉大なロマン派の協奏曲を録音した。彼女の演奏が好きだという先入観を全く抜きにしても、彼女の演奏は世界レベルであり、一流であると断言できる。
Nishimura
THE BIRMINGHAM POST(イギリス)
数週間前、私は若い有名な日本のヴァイオリニスト、宇田川杰子が印象的なメンデルスゾーンを弾くのを聴いた。私の第一印象はブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ短調の魅惑的な演奏を聴いてさらに確実なものとなった。このソリストは華やかなヴィルトゥオジティのある音楽を弾いても、詩的なリリシズムのある音楽を弾いても、常に輝きに満ちた豊かな音色を自由に操り、効果的に用いている。こうした理由で、ブラームスは彼女に合っていたが、技術的な熟達ぶりにというよりも彼女の演奏のほうに合っていた。彼女の作品の理解は深い共感をもつ解釈へと向かい、感動的な詩心にあふれた演奏と確かに芸術家らしいクライマックスの判断は、たとえばカデンツァと刺激的なほど正確なハンガリー風のフィナーレで、芸術性の権化である。
Barrie Grayson
COMERCIO do PORTO(ポルトガル)
宇田川杰子は、最初から最後まで、並外れた演奏者だった。時に深いパトスを喚起させ、時に熱狂的な運弓法で輝かしく魅惑的で、そして常に驚くべき左手になだめられている。彼女の流暢さ、自信、正確さ、演奏に関する特別な才能は、彼女の力強いテクニックと楽才を通して十分に示されている。ポルトガルで演奏したヴァイオリンの最も魅惑的なヴィルトゥオーソの一人に、聴衆がどこまで自然に、正しく魅了されたか、その高貴な喝采でわかる。そこにいただれもがこのコンサートのことをきっと忘れることはないだろうと、我々は信じている。
Hugo Rocha
THE STRAD(イギリス)
宇田川杰子がロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と行った、ブルッフのト短調協奏曲は実に信念のある演奏だった。彼女の熟成した感性豊かな演奏は決して身勝手に陥ることはない。力強く、そしてまた心の底から叙情的に、この不滅のつわものといえる作品に対する愛情を認めながら、厳然と、持って生まれた才能で曲の流れを支配している。
Jeffrey Josephs
THE IRISH TIMES(ダブリン)
あまりに多くのヴァイオリニストが、技術的、肉体的挑戦を覚悟で、栄誉ある音楽を作るというよりもむしろ、勝ち目のない挑戦としてバッハの無伴奏ソナタを演奏している。宇田川はずっと甘美で美しく、豊かな音色を保ち、(一つ例を挙げれば)フーガをフーガとしても美しい音楽としても楽しんでいる。これは離れ業というものではなく、私共が感謝すべき音楽の作り方である。
Charles Aaton
ASAHI SHIMBUN(東京)
宇田川杰子は輝かしいテクニックに恵まれた演奏家であり、そのためステージ全体が輝きわたる。しかし私がリヒャルト・シュトラウスのソナタ(作品18)を興味深く思ったのは、宇田川が決して自らのテクニックを前面押し出すことなく、何よりもまず作曲者の心の真髄を伝えたからであった。
Hikaru Hayashi
BERGENS TILENDE(ノルウェー)
美しく澄んだ音色、そしてすばらしい左手のテクニックで、その音楽表現は豊かで変化に富んでいた。若いソリストによる非常に賞賛に値する演奏であり、私たちはもう一度彼女の演奏を聴きたい。
Falter Aamodt
FINANCIAL TIMES(ロンドン)
日本のそのヴァイオリニストは堂々たるテクニックを持っている。たとえば、余分な筋肉の力はほんのわずかでも入ることのない、際立つほど無駄のない左手の動き、そして高い位置での目が覚めるほど切れのあるアーティキュレーション。すべての音域の調音が正確で鮮明であり、まばゆいばかりの音色である。
Dominic Gill
LOS ANGELES TIMES
マックス・ポマーはザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団を率いて金曜日に典型的なモーツァルト・プログラムを演奏した。しかし特に賞賛されたのはソリストの宇田川杰子だった。機敏で生き生きとして力強く、自信に満ち、センスを持った彼女は、ニ長調協奏曲K.218を若者らしく楽観的に演奏した。
Chris Pastes
GREEN BAY PRESS GAZETTE
宇田川は主要なオーケストラとともに数多くの印象的な共演を行っている。そしてなぜ彼女がこれほど引っ張りだこなのかを、彼女自身がすぐに演奏で明らかにした。生き生きと輝く音色は、音域すべてで変わることなく純粋さを保っていたからだ。
ソリストは自らの楽器を完璧に操っていた。彼女は指揮者ポマーと協力して、非常に堂々とした協奏曲(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番ニ短調K.218)の演奏を成し遂げた。聴衆は宇田川の魅惑的な演奏に温かく応えた。
Terence O'Grady
THE ARIZONA DAILY STAR
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団と指揮者マックス・ポマー、ヴァイオリニスト宇田川杰子を町まで運ぶバスの中に固定観念にとらわれた者はいなかった。
宇田川はオール・モーツァルト・プログラムの中央で登場した。ヴァイオリン協奏曲第4番での彼女のソロ演奏は、彼女の恩師ナタン・ミルシュテインと20世紀初期からの数少ないヴァイオリンの巨匠たちを思い出させた。宇田川は軽いがよく通る音色で優雅さを、そしてまた指板の上を今流行している以上に上下に動き、情感をも示した。これらすべてと、弓でなくバターナイフを必要とするかもしれないレガートは、伝統的なモーツァルト演奏が最もよく取り入れていたものである。
James Reel